2011年6月19日日曜日

泥棒が声を掛けて道を聞いてくるとき


 『すいません。ここを行くと・・・。』



 朝の通勤をしていました。6階建てのマンションの6階にある部屋を出て、いつもの通勤の灰色のアスファルトの道を駅に向かって歩いていました。黒い革の鞄を右手に持ち、外国製生地で出来た、お洒落な青いストライプ柄のカラーワイシャツに、紺色のチェック模様のネクタイを閉め、黒い靴下と黒い革靴を履き、グレーのスーツ姿で、急ぎ足で歩いていました。すると、笑顔で私を呼びとめ、落ち着いた穏やかな声で、道を尋ねる男が居ます。反対方向から、ゆっくりと歩いてきた、丸顔で、どんぐり眼の男です。背は低く、太ってはいますが、デブではありません。茶色の安物のようなスーツを着て、白いワイシャツにノーネクタイ姿です。間違いがなければ、運動靴を履いていたようです。



 男に簡単に応えて、男を後にして駅への道を急ぎました。信じられない話かもしれませんが、私に道を尋ねてきたこの男、実は泥棒なのです。私が住んでいるマンションは、工場地帯に建っています。そして、この工場地帯の、どこかの工場に勤めているのだと思います。そして、この男、自分の素性を私が知らない事を確認する為に、私に道を尋ねてきたのだと思います。その後、この男まっすぐ、私の住むマンションの部屋に向かったはずなのです。



 ある日の事です。時間は午前中だと思います。ドアのチャイムが鳴りました。しばらくしてから、寝ぼけた頭で布団から出ました。板張りのフローリングの廊下を素足で歩いて玄関のドアに向かい、覗き穴に顔を近づけドアの外にいる人を見ました。すると、この男が居ました。ドアのチェーンを外し、ドアを開けました。男が急いでドアから離れ、逃げていく後姿がありました。ガチャガチャとドアの鍵を開けようとしていたのです。



 駅への道を歩きながら、盗人猛々しいとは、この事だなぁ、と思いました。その時の私は、以前、泥棒がドアの前に来たマンションを引越して、違うマンションに移り住んでいたのです。しかし、実に人の良さそうな顔をした泥棒なのです。もちろん、泥棒をしている最中は別な顔をしているはずだと思います。きっと工場で働きながら、工場への勤めの行きと帰りに泥棒をしているのだと思います。



 人は、どのような経緯で泥棒になるのかは分かりません。でも、国を盗むのは英雄で、隣りの人のものを盗むのは泥棒だと、言う人がいます。どこに視点を向けると、泥棒になるのでしょう。そして、表と裏、その逆の事をしている人達もいると思います。出来たら、そのような人達のひとりになりたいものです。豊かで、愉快な快適な生活を、毎日過ごしている人々の一人にです。



 これは、昔、私が横浜に住んでいたときの話でした。

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