2012年7月19日木曜日

小学生のとき戦争体験をしたと云う、昔の娘さんの話を聞きました。



 『田舎の山奥だったからね。先生が云うので、校庭で聞いたけどね。天皇陛下がね、言ってましたね。』



 『へえ~。でも、なんか、こう、心の中に傷が残ったってのはないの?』



 『無いわねえ~。ほら、子供は、その場が、すぐ天国になっちゃって。』



 『でも、食べ物は無かったんでしょ?』



 『そう、無かったわよ。食べ物なんか。』




 白髪で、ちょっと腰の曲がった、昔の娘さんが私に話します。年齢的には、相当歳を重ねています。そんな女性でした。でも、口の方は、随分達者で、すらすら、ぺらぺらと、幾らでも言葉が流れてきます。でも、受身的な会話ですね。尋ねられたことは、流れる川のように流暢に出てきます。




 『どこどの飛行機工場で使う翼だって云われて、飛行機の翼を作ったわね。』




 小学校が工場になって、戦争で使う飛行機の翼を作っていたそうです。でも、何か、人事のような経験を語ります。それは、誰も聞かないし、価値を認めていないのです。聞かれる事によって、小さい子供の頃の体験を、昨日のようの事のように生き生きとした言葉で話します。



 こんな話が、小さな子供達に必要なカルシウムになるのだと思うのです。精神、生活、世界を見る骨になるのだと思うのです。それは、ちょん切られた情報ではなく、体型だった知識だと思うのです。体型だった話が、人の生活を進める事が出来る唯一の、力だと思うのです。



 現在、白い羽を持つ鶏のブロイラーのように、生きている現代人が多いと思います。何も考えられず、生活も流れる時代のなかで、隣人と接触する機会もありません。人と触れ合う事が出来ない環境、に現在はなってしまったのです。



 『駄目なんだよね。最初は、言うんだよ。今度、家に遊びにおいでよってね。交流を図るんだけど、駄目なんだよね。最初は良いんだけど、駄目になっちゃうんだよね。』



 大学のスポーツ関係の仕事をしている人が云っていた事が、私の耳の奥の片隅に諦めた声で云っていたのが残っていました。それは、無縁社会の人達なのです。ちょん切られた、誰かさんの都合の良い情報ばかりでは、人の中に何も育たないのだと思います。そんな、都合の良い情報で、何にもない人が、交流を図っても、何も交流できないでしょ。ちょん切られた情報を、話し合っても、互いの都合を話すだけになります。



 過去に繋がっている、昔の娘さん等の話を聞いて初めて、現在を生きる事が出来るのです。人と交流する事がうまく出来るのです。繋がっていますからね。過去は現在と。そして、明日に繋げることだ出来るのです。それは、理屈ではないのだと思います。






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