2011年8月20日土曜日

本人の意思を無視して、救急車を呼ぶ女と、本人の意思を無視して救急病院を探して、本人を救急病院に運ぼうとする救急車の隊員たち


 『病院には行きたくない。部屋に行きたい・・・。病院には行きたくない。』
 『でも、頭が切れていますよ。血が出ていますよ。』



 ここは、東京世田谷区三軒茶屋近隣に建つ、賃貸マンション出入口の広々としたロビーです。深夜、天井から幾つか、小さな照明が点灯しているロビーには、濃い茶灰色麻布地ソファー4脚と、白い小さなテーブルを一組とするテーブルセットが、大きな緑の葉を持つ観葉植物を間に、適度な間隔を開けて4組置いてあります。出入口ドア近くのソファーに腰を下ろしている年老いた女性を、白いヘルメットを頭に被った、三人の救急車隊員が取り囲んでいます。三人の救急隊員は、痩せ年老いた女性に、病院に行くように説得しているのです。マンション部外者の私と、マンション住人の若い男と、女が、救急隊員と年老いた女性とのやりとりの様子を黙って、見ています。若い女は、年老いた女性が座っている向かい側ソファーに足を組んで座り、足に集る蚊を手で叩いています。若い男は、女が座っているソファー横に、腰を折り、膝を曲げ、片膝を立てたしゃがんだような姿勢で、様子を見ています。壁周りが薄暗いロビーは、エアコンが無く、肌が汗ばむ暑さです。



 2日前、深夜0時を過ぎる時間でした。マンション脇道路に、年老いた女性が仰向けに倒れました。年老いた女性は、車の左後部座席から出て、車の背後を廻って、向かいのマンションに行こうと歩いていました。そして、車の対向車線左側から、車が一台、上り坂を一気に駆け上り、凄いスピードですれ違い通り過ぎたのです。どうも、出会いがしらの車に、驚いて仰向けに転んだようなのです。倒れている年老いた女性に、驚いて駆け寄り、声をかけ、抱き起こそうとしました。道は前後に緩やかな坂になっていて、ぎりぎりではありませんが、車がすれ違う事が出来る幅しかありません。



 『大丈夫ですか? 起きられますか。ちょっと体に触りますね。』



 年老いた女性の足元から離れたところに、つま先が黒く全体がベージュ色の踵の低い靴が片方脱げて転げていました。上半身を起し、立てるかどうか聞きました。彼女の右腕を取り、背中に右腕を廻しました。何も応えない彼女を、後ろから彼女の両脇に手を差し込み、力を入れました。しかし、彼女は、なんだか呆然としているようです。何が起こったのか、分からないようなのです。



 『それとも、少しここで、横になっていますか?』



 どうしていいのか分からずに、彼女の上半身を起しました。脱げた片方の靴の方に、彼女の体を支えるように、持って行くと、彼女は右足を靴の中に入れ、靴を履きました。周りを見ると、100円玉が3つ落ちています。立ち上がった彼女から手を離して、100円玉を拾い彼女の手の中に入れました。すると、ふらふらと、よろめきます。あわてて、彼女の腕をとり、彼女の体を支えました。



 『ここのマンションですか? どこですか? ここに住んでいるんですか?』
 『ちょっと今日はいやなことがあって、お酒を飲み過ぎちゃったの。』
 『部屋まで送りますね。どう、行ったらいいんですか?』



 ふらふら足元がおぼつかない、彼女の背に手を廻して、中腰になって、彼女の云う方向に、いっしょに歩いていきました。ですが、どうも、マンション入口ではありません。気持ちか、頭が、どうにかなっちゃったようなのです。マンション入口を探すため、彼女にここに居るように話、急ぎ足で、マンション周りを歩きました。



 『ありました! ここですね。』



 深夜の街灯の下、薄暗い中を灰色のアスファルトに立っている彼女のところに戻り、彼女の体に手を廻し、入口に向かって歩きました。すると、彼女が駐車場のところで、いつもここから、入っていると云います。駐車場入口には、鉄の鎖が張ってあります。どうも、おかしいとは思いましたが、彼女がそういうので、鎖を右手で持ち持ち上げました。そして、彼女が鎖の下をくぐろうとすると、マンション住人の車がヘッドライトを点灯して来ました。そして、車の窓から手を伸ばして、駐車場入口の門に備え付けのスイッチを押したようです。奇妙な音が鳴り、年老いた彼女が腰を曲げ、くぐろうとしている鉄の鎖が、力強く下がっていきます。



 『あ! あぶない。ちょっ! ちょっと待ってください。』



 あわてて、年老いた彼女が、頭を下げ鎖の下をくぐろうとする体を引き戻しました。そして、車の持ち主の女性に声を掛けました。でも、女性は私達が何をしているのか、見るだけで、そのまま駐車場の中に入ってしまいました。駐車場は結構広く、マンション北側にくっついて設置してあります。しょうがないので、年老いた女性の側を体を支えるように歩いていました。でも、彼女の云う銀色のドアの前に立って聞くと、5階に住んでいるといいます。でも、ドアの後ろには階段が見えるだけです。階段を上って部屋までいくのかと、年老いた彼女に聞くと、エレベータがあるといいます。ドアの後ろには、エレベータがあるような様子はなく、静まり返った深夜の中に、上に行く階段と、各階のマンション外側通路に並ぶ住人のドアが等間隔に、深夜通路の明かりの中でひっそりと並んでいるだけです。しょうがないので、さっき私達を無視した車の所に行って、女に声をかけました。



 『すいません! 何か、このマンションの5階に住んでいるらしいんですけど、どこから入るんですか?』
 『あっ! 倒れた!』



 運転席で女が叫び、振り返ると、年老いた彼女が駐車場の灰色の深夜のアスファルトの上に倒れていました。あわてて、彼女のところに戻り、抱き起こしました。すると、先ほどと、同じような事を云いました。



 『今日は、ちょっといやな事があって。』
 『救急車を呼びましょう。』



 いつの間にか女が側に立っていて、そういうなり、携帯電話の番号を押し始めました。何か性急な感じがしましたが、救急車が、深夜の静かなマンションのロビーの前に止まりました。ロビーですったもんだして、部屋にたどり着く前に、救急車が来たのです。そして、救急隊員とのやりとりが始まりました。どうしたんだ、どのように転んだのか、年老いた彼女の身寄り等を聞き始めました。そんな、ロビーにマンション住人である若い男が、やってきました。事情を聞き、救急隊員に自分の名刺を渡して、どこの病院に連れて行ったか連絡をしてくださいといいました。



 年老いた彼女は、身よりも無く1人暮らしらしいのです。そして、頑なに病院に行くことを拒否しました。ですが、救急隊員の説得が終わりません。いつまでも、続いています。そんな中で、白髪頭の後頭部に上の方に、白いガーゼと網目のような形状の帽子みたいなものを被せられました。



 『医者に診せないと、決着が付かないの? 病院に行けばお金もかかるでしょう。医者を部屋に呼べないの?』



 救急隊員の後ろから、私が言いました。3人の救急隊員は私を振り返り、頭に傷があり、倒れた事実から、やはり、病院に連れて行く事の説明をしました。年老いた彼女は台の上に乗せられて、救急車の後ろに乗せられたようでした。ロビーにしばらく、女と、男を前にして、立っていました。



 マンション前の救急車の運転席で、これから搬送する病院を探して、携帯電話のボタンを押している救急隊員がいました。そんな、白いヘルメットを被り、青い制服を着た彼らと、高級賃貸の様相をしたマンションを後にし歩き出しました。



 最初見たときに、年老いた彼女の後頭部の上は、5センチぐらいの傷があり、黒い線になっていました。そして、首には赤い血が流れて乾いていました。気が付くと、私の白いワイシャツの右肩と袖には、赤い血の後が付いていました。



 本人の意思って、日本では・・・。自分の住んでいるマンションの前でころんだだけなんだけど・・・。どこに連れて行かれるかもしれず・・・。住んでいるマンションから、遠くの病院だったら、帰りはどうするんだろう・・。勢いだけで、救急車を呼ぶ女と、病院を探す救急隊員なのでした・・・。かかる費用は誰が出すんだ・・・。野次馬の男は、何を考えて名刺を渡したんだろう・・・。



 痩せ年老いた彼女は、長い時間、皆に迷惑を掛けていると思い、気使い、救急車に乗ったのです。そして、現状では、彼女には確実に、周りには誰も無く、1人でこの賃貸マンションの部屋で黙って死んでいく孤独死が待っているのです。

0 件のコメント: