2009年10月1日木曜日

海の香り




 とても不思議な人を見ました。それは、ある初夏の日の午後の事でした。



 私は、東京の地下鉄である有楽町線から半蔵門線に乗り換えるエスカレータの階段の上に立っていました。私は、グレーのスーツ姿で顔から流れる汗を厚手のタオル地の青い木綿のハンカチで拭きながら、仕事を探す、言いようのない不安な気持ちで会社の営業を忙しそうにアッチコッチと、毎日歩いていました。



 そのエスカレータは、とても長く100メートル位はあるでしょうか。 そして、様々な服装の男女が、いつも列を成して、そのエスカレータを利用していました。



 私は、薄汚れた赤色のビニール質の手すりに右手をかけ、半蔵門線のホームにつながっている下り方向のエスカレータに乗りました。そして、足元から顔を上げました。その時、反対方向から昇って来るエスカレータに乗り始めた男の人の姿を私の目が捉えました。姿勢の良い立派な体格をした外国の壮年の男の人です。長袖の薄青のワイシャツを着て、グレーのズボンと黒い革靴を履いていました。彼は金髪の白人で、涼やかな目と顔立ちをしていました。そして、彼との出逢いは数分で終わりました。話をすることも、目を合わせる事も、振り返ることもありませんでした。



 しかし、彼を見た瞬間から、私の想いは、遠い昔の日に見た故郷の海と空の中に飛んでいました。幼い子供時代に、毎日のように誰も居ない錆びれた古い港の上を飛び跳ねて遊んだ気ままな自分と世界を感じていました。秋の日の青い空に群れ飛ぶウミネコの騒がしい鳴き声を耳にして、波に濡れた砂の上を素足で歩いている、何者からも解き放たれたような自分を感じていました。 高い空に輝く太陽の光を浴びて、キラキラと金色にさざめくような海の波を、一人古い港の苔むした大きなセメントブロックの上に座って何時までも何時までも眺めていた自由な時間を感じていました。



 彼の目や、鮮やかな顔には大空の下で、ゆうゆうとした青い海の穏やかで厳しい表情が刻まれていました。彼の姿は、水平線に広がる大海原や、波が洗う砂の上を吹く潮風の香りを身に纏っていました。そう、幼い子供時代の環境の中に居た人々と同じ海と潮の匂いを、身につけていました。



 人が生きる人生も海に似ています。大波、小波、荒れたときもあれば、天気の良い凪の時もあります。沈んだり、浮かんだり、泣いたり、笑ったり、怯えたり、時には嬉しさに打ち震えていたりしています。みんな、人生と呼ぶ海に生き、しかしやがては、静かに終わりの日を迎えるでしょう。ちょっと周りを見てください。あなたが見ている人達ですが、100年も経てば、みんなこの世の中から、姿を消して、いなくなるのです。

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